​わが国の老年医学の歴史  (第100回中部地区老年医学談話会 葛谷雅文 発表資料)

1953年(昭和28年) 東京大学病理学 緒方知三郎氏が老人病研究所、老人病研究会を設立
1954年(昭和29年) 東京大学外科学 塩田広重氏が寿命学研究会を設立
1955年(昭和30年) 大阪大学内科学 今村荒男教授が老年科学研究会を設立
1956年(昭和31年) 第1回日本ジェロントロジー学会が東京にて開催された。会長:塩田広重氏、老年医学部会長:緒方知三郎氏。
1957年(昭和32年) 第2回日本ジェロントロジー学会が大阪にて開催。会長:今村荒男氏、老年医学部会長:吉田常雄氏)。
1958年(昭和33年)第3回日本ジェロントロジー学会が名古屋にて開催された。会長:勝沼精蔵氏(名古屋大学)、老年医学部会長:山田弘三氏。総会において名称の改称が決定され、日本ジェロントロジー学会は日本老年学会、老年医学部会は日本老年医学会、文化科学部会は老年文化科学会(1959年に日本老年社会科学会に改称)となった。
1959年(昭和34年)第1回日本老年学会が東京にて開催。会長:塩田広重氏、日本老年医学会会長:緒方知三郎氏、日本老年社会科学会会長:渡辺定氏。この総会にて日本老年学会が発足、その分科会として日本老年医学会および日本老年社会科学会が発足した。
1960年(昭和35年) 第2回日本老年医学会が京都にて開催された。会長:井上硬氏
1961年(昭和36年) 第2回日本老年学会が東京にて開催された。会長:尼子富士郎氏
          第3回日本老年医学会会長:冲中重雄氏、第3回日本老年社会科学会会長:渡辺定氏。
1962年(昭和37年) 東京大学に老年病科が設立(冲中重雄氏 第三内科教授併任)
1964年(昭和39年) 日本老年医学会が日本医学会に第54分科会として加盟
1968年(昭和43年) 京都大学、日本医科大学に老年科が設立
1972年(昭和47年) 東京医科大学、金沢医科大学に老年病科が設立
1976年(昭和51年) 大阪大学に老年・高血圧内科が設立
1978年(昭和53年) 名古屋大学に老年科が設置(葛谷文男・元教授)

地域在宅医療学・老年科学(旧老年科学)沿革 (第100回中部地区老年医学談話会 葛谷雅文 発表資料)


 本学では勝沼精蔵や山田弘三らが戦前より老年医学に対して多大な業績を挙げ、本学の老年医学研究の基礎がかためられ、山田が率いていた医学部第三内科に老年病研究室が創設された。昭和五十三年四月に本学医学部に老年科学講座の設置が認可され、昭和五十四年四月に初代教授として第三内科老年病研究室で動脈硬化症ならびに血栓症の研究をしていた葛谷文男が発令された。国立大学では日本で四番目の老年医学に特化した講座であった。当時はまだ日本における高齢化率は十%に満たない時代であった。昭和五十五年二月には吉峯徳が助教授に、また同年五月には大原清仁が講師に着任した。老年科学教室は旧二号病棟一階に開設し、同年十月には外来診療を開始、翌年五十六年一月には六A病棟に老年科病棟が開始された。昭和五十七年には助教が設置され、浅井幹一が就任した。大原の退官に伴い昭和五十八年に浅井が講師に、さらに藤田勝成が助手に就任した。昭和六十一年に藤田の退官に伴い、内藤通孝が助手に就任した。
 研究に関しては動脈硬化研究(浅井幹一、内藤通孝ら)、脂質・凝固・高血圧研究(吉峯徳ら)、老化・老年病研究(下方浩史ら)に加え、当にまだ疾患として注目されていなかった認知症の研究(遠藤英俊ら)も開始された。海外留学も盛んで、下方、遠藤、葛谷雅文らは米国国立老化研究所に留学している。徐々に医局員も増え研究、診療に老年医学に関係する業績も増えていったが、老年医学の研究の方向性など、まだまだ迷いがあった時代ではあった。しかし、当時から診療に関しては高齢者を横断的、包括的に診療するのだ、という気概は浸透していた。まさに名古屋大学老年科学講座の草創記であった。
葛谷は会頭として、第十四回日本動脈硬化総会(昭和五十七年)、第七回日本過酸化脂質学会(昭和五十八年)、第九回日本臨床栄養学会総会(昭和六十二年)、第三十一回日本老年医学会学術集会(平成元年)を主催した。また、厚生省特定疾患・原発性高脂血症調査研究班「日本人の高脂血症の疫学」(昭和五十八年~六十年、昭和六十一~六十二年)、厚生省長寿科学研究の「老化に関する縦断研究」の研究班班長などを務めた。葛谷は平成四年三月に定年退官を迎え、その後中津川市民病院院長に就任した。葛谷の在任中の昭和五十五年に日本学術会議が国立老化・老年病センター(仮称)の設立を勧告し、昭和六十二年に昭和天皇御長寿御在位六十年記念事業による厚生省の長寿科学研究組織検討会が「長寿科学研究センター(仮称)基本構想」を提出した。
 平成五年に旧第三内科代謝研究室講師であった井口昭久が第二代教授に就任した。井口は本学を卒業後、第三内科に入局し、その後愛知医科大学第一内科講師を経てニューヨーク医科大学に留学後、本学第三内科に帰局し、坂本信夫の基で講師として代謝研究室を率いていた。この研究室は老年科学教室のあった旧二号病棟の四階にあった。井口の就任前後より、社会では盛んに日本における高齢化がテーマとされ、実際その後介護保険の導入、高齢者の医療負担の増大など医療社会保険制度の劇的な変化を経験した時代であった。井口は今までの教室の研究グループ(動脈硬化・認知症など)に加え、糖尿病代謝研究ならびにロングタームケア研究などのグループを構築し若手の研究者のリクルートを積極的に行った。平成五年ごろより名古屋大学附属病院の再開発が始まり、旧二号病棟も取り壊しとなり、平成九年に教室を基礎別館二階に移転し、四年ほど過ごした後に、平成十三年秋に新臨床研究棟(現在の研究棟一号館)六階に引っ越した。また、新病棟の完成にともない平成八年に旧東病棟六Aから新病棟十W病棟に移転が行われた。
 平成十年には大学院大学化により老年科は大学院医学系研究科健康社会医学専攻発育・加齢医学講座老年科学分野と名称変更された。人事に関しては平成八年に浅井講師が藤田学園保健衛生大学七栗サナトリウム助教授に赴任し、内藤が後任の講師に、葛谷雅文が助手に就任した。平成十年に吉峯助教授が定年退官後、内藤助手が助教授流用講師に、葛谷雅文が講師に、林登志雄が助手に就任した。また、平成八年に国立長寿医療センター研究所疫学研究部初代部長として広島大学原爆放射能医学研究所助教授であった下方が、当教室より安藤富士子が長期縦断疫学研究室長として着任した。平成十四年に内藤助教授が杉山女学園大学生活科学部教授に就任し、後任に葛谷が助教授(平成十九年に准教授)、林が講師に、梅垣宏行が助手に重任した。平成十八年には小池晃彦が名古屋大学総合保健体育科学センター助教授に、また同年大西丈二が名古屋大学医学部老年情報学寄附講座(中部電力)助教授に、平成二十年に平川仁尚が附属病院卒後臨床研修・キャリア形成支援センター特任助教に赴任した。
 平成七年に国立療養所中部病院長寿医療研究センターが開所し、それ以前の国立療養所中部病院内科医長として赴任していた遠藤に加え、当該教室より三浦久幸、佐竹昭介が赴任した。井口の在任中に国立長寿医療センター病院に加え、厚生連海南病院、成田記念病院、福祉村病院、名古屋リハビリテーションセンター(田島稔久)などに医師を老年内科医として赴任させた。井口の在任中、多数の留学生(中国、フィリピン、イラン、ネパール、インドなど)が教室で学んだ。国費外国人留学生としてはミゲル・ラモス(フィリピン)、成憲武(中国)などが大学院生として教室で研究し博士号を取得した。ラモスはフィリピン帰国後、フィリピンの老年医学を牽引した。成は学位取得後、名大循環器内科に移動し寄附講座の助手に就任し、動脈硬化ならびに血管細胞生物学の基礎研究を継続した。井口は平成十五年に日本老年医学会学術集会会長を務め、さらに平成十六年三月から平成十九年三月まで名古屋大学医学部附属病院病院長として病院の改革に務めた。平成十六年に名古屋大学は独立行政法人化され、病院長は病院改革などで多忙となり、専属としてその業務に当たる必要があり、井口の病院長の間は葛谷が特命教授に就任し医局運営を行った。井口は平成十九年三月に定年退官し、その後愛知淑徳大学健康医療科学部教授に赴任した。
 井口の退官後、老年科の教授選考が実施されたが教授会での選考が流れ、その後三年間教授選考自体が開催されず、結局計四年間に渡り教授不在の時代があった。この間は新入局者も少なく、また教室を去る医局員も出たことにより教室は大変疲弊した。平成二十三年四月に組織改編があり老年科は附属病院・在宅管理医療部と統合し、地域在宅医療学・老年科学分野として葛谷雅文が老年科としては第三代の教授に就任した。それまで、附属病院在宅管理医療部講師だった鈴木裕介がこの統合により当教室の講師となった。
 平成二十四年より「地域包括ケアシステム学寄附講座」(スギホールディング)が開催され、親講座として当教室より鈴木、広瀬貴久がそれぞれ特任准教授、特任助教に就任した。それに伴い梅垣が講師、柳川まどかが助教に就任した。平成二十六年には卒後臨床研修・キャリア形成支援センター病院助教に伊奈孝一郎が就任した。林は平成二十八年名古屋大学大学院医学系研究科・医学保健学健康発達看護学講座の教授に就任した。それに伴い梅垣が准教授、大西丈二が講師に就任した。
葛谷は平成二十五年より病院地域医療センター(現・地域連携・患者相談センター)・センター長を務め、またセンター設立時より老年科医師が地域連携に関わり、センターでの医師が関わる業務を当教室員が請け負っていた。それもあり平成二十六年、地域包括ケアシステム学寄附講座の終了後、鈴木が同センターの病院准教授に、また中嶋宏貴が病院助教に就任しセンター業務に関わるようになった。また、葛谷は部局横断的プロジェクトに取り組む組織として設立された名古屋大学未来社会創造機構の教授に就任し、大学院医学系研究科の教授との兼任となった。未来社会創造機構には成憲武が特任准教授、牧野多恵子が特任助教として赴任した。成はその後、平成三十年に母校の中国延辺大学附属病院循環器内科兼心臓病センター主任教授に赴任した。また、平成二十六年に地域包括医療連携モデル事業のため名古屋逓信病院に「名古屋大学医学部附属病院地域包括医療連携センター」が設置され(平成三十一年三月に終了)、当科より病院講師として中村了、長谷川潤が、平成二十七年より広瀬が出向した。
 このころの日本の高齢化率は二十八%前後(平成二十九年)となり、超高齢社会と呼ばれる時代であり、医療も病院完結型医療から地域完結型医療への変換が求められ、国の政策として地域包括ケアシステムが求められる時代であった。

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